『かぐや姫』から学ぶ
昨日の夜から今日と、『かぐや姫』のワードを二度目にした。
一つは、youtubeで、宇宙等の話をする動画が目に入り、その動画の主催者とか。
一つは、「黎明」という本の中で。
以前、ジブリの「かぐや姫の物語」という映画を見たときのことを、思い出した。
あのとき、はじめて、かぐや姫の話を知った気がした。
月が極楽浄土(この地球よりも遥かに)で、かぐや姫は、地球に未練を感じるも、帰ってしまう。
私は以前、ある人と知り合って、それから、月を不思議と互いによく見るようになり、その映画を見たとき、私もなんだか、月に帰れればいいのにと、泣いてしまった。
一緒に行った鰻屋さんがある。二回も同じ席に案内され、そこから見えた絵を思い出した。
平安時代の人?が大きな白い丸いものを持っている。遊ぶ道具なのか分からないが。それを見た二回とも、月が非常に思い出されたのだ。
あと、2020年の十五夜(満月)にまた会おうと約束をしたが、その時、普遍的意識の、何かが変わっているのかもしれない。
話を戻そう。
『かぐや姫』。
この世が魂の修行や向上の場であることを、顕著に教えてくれている。
罪を犯したから地上に来た、というのが、分かりやすい。
罪を犯さないまでも、鍛錬・修行の場として、地球にくる魂があるのだ。
(次元上昇が目的でくる魂も最近多いらしい、念のため。)
もう一つ。
『一見実在するように見えるが「本当は実在しないもの」』を、かぐや姫が結婚の条件として、求めたことだ。
一見素晴らしく見えるものであっても、全て実在しないのだ!!
モノは振動で揺れて、光が当たるから見えるだけであって、見ようと意識を向けてるから、見えるだけ。
自分の肉体もそう。美しく見えるダイヤモンドも、目の前の机も、そうなのだろう。
でも、不思議なのが、実在しないとするなら、なぜ、“感触” があるのか。
触ると、暗闇でも、存在しているように思うし、人と交わると気持ちが良かったりもする。
モノをほしいと思う、「物欲」。
そして、
実在すると感じる、「感触」。
これらが、地球で肉体を持って生活するということなのか。
間違えれば、自らを傷つけるものとなるが、
他方、喜びともなる。
人として、地球に生まれたことを、もっと楽しんでもいいんじゃないか。
「物欲」や「感触」を全否定するのではなく、それらを通して、自分が何を学び、愛を持って生きていけるか。
まだ月には行かない^^
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