人が人を裁く、無意味さ
カミュの「転落」という小説を読んだのもあり、思うことを。
自分であっても他人であっても、人が人を「ジャッジ」する。
ジャッジすべき基準なんてものは、ない。
元来、良し悪しなんてものはない。
自分が周りをどうみるのか、どう振る舞うのか、
皆でどれだけ霊性を高められるのか、
これに尽きるんだと思う。
「目に見えるもの」「見えないもの」の話にも及ぶが、
例えば、人を例にとる。
「目に見える」視点から言うと、
いくら稼げる人間か、実際に「賃金」というもので、ジャッジされる。
一方、
「目に見えない」視点でいうと、
どれぐらい心から愛をもって生きているか、貶めたり利己的になったりしていないか、
また携えている成長課題をどれだけクリアできてるか、
明確なジャッジ基準なんてない。
ポイントは、
「目に見える」視点で考えるとき、
そこには上下関係があるからこそ、ジャッジメントが発生してしまっているのだ。
本来、人間に、上下関係なんてない。
皆、異なる個体に過ぎないからだ。
皆で協力して、霊性を高める存在であるからだ(時に一方が受け手になり、一方が与える側になったりもする場合もあるだろう。)
例えば、死刑制度も、霊性を無視した、肉体が滅びればこの世が終わる的な、浅はかはものであるだろう。(現肉体の役目が終了した者は別だが。)
繰り返すが、
自分が周りをどうみるのか、どう振る舞うのか、
皆でどれだけ霊性を高められるのか、
これに尽きるんだと思う。
人をジャッジしようとしたとき、そこには上下関係が発生してしまう。
共に、成長する、霊性を高める、
この視点が大事であろう。
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