見えないものを信じる力
ポール・トゥマン「アモルとプシュケ」
こちら、昨日ブログに載せたものと同じ主題のものを発見。画家によって、場面も変わるんだなぁ、素敵です!!
ちなみに、プシュケ(右)は、魂を表す、とのことだったが、「蝶」も表すとのこと。サナギから蝶が生まれ、魂が体から抜け出すので、「蝶」も表すとか。こういう知識があるかないかで、絵の鑑賞も面白さがだいぶ変わるんだろうな。昨日の絵は、頭の上に蝶が、今回は、自らが蝶かのごとく、描かれている。右下にも^^
それにしても、愛に包まれていて、うらやましい。
しかも、”見えない” 存在からのキス。
そうそう、
私の去年からの課題は、「目に見えないものを信じる力」だ。
家族間で、土地の相続問題が起こり、全く持って、バカらしくなったのだ。
地球の土地は、人間のものでは無い。にもかかわらず、勝手に線引きをし、自分の領土だとし、それに政府が税金をかけたり、売買や投機の対象ともなり、物欲の対象とする。資本。資本主義の象徴である。
相続税に大金払って土地を維持するのって、本当にバカらしいし、その資金で、心を豊かにすることがいっぱいできる。
これをきっかけに、いかに私が今の社会で、「目に見えるものだけ」を信じていたか、本当に情けなくなったし、このままでは嫌だと意識改革が内側から起こっている。
例えば、
「見えるもの」
お金、土地、モノ、人の言葉や行動、マスコミが洗脳してくるニュース。
「見えないもの」
気持ち、可能性や適性、愛、宇宙や見えない存在、エネルギー、学んでいないこと、知らないこと。
例えば、私は占いをするので、当たっていると思えば信じるのだが、占いに対して、非科学的すぎると全否定な声も世間にはある。
私はこのことが、甚だくだらない、と思っている。学校で習う学問だって、本に書いてある内容だって、このブログの内容だって、人間が思考を働かせた結果に過ぎない。法律だって国が変われば変わるし、TVのニュースだって、番組ごとに内容も違うし何よりも洗脳操作が入っている。
つまり、
正しい・間違っている、の世界ではないのだ。
何が正しいか間違っているかなんて、誰にも証明できない。
何が言いたいのかというと、
見えているものしか、見ていない。
見ようと思ったものしか、見ていない。
ということ。
で、それも正しい間違っている、ではなく、余りに偏っているのが、私は問題だと思うのだ。
世間で「見えるもの」だけに向かって。
確かに、郷に入れば郷に従え?的な感じで、今生きている社会で、普遍的・良・大衆的な、「見えるもの」を信じて生きていけば、楽であろう。
しかし、この世は、エネルギーで出来ている。人の情念や思考や、言霊もエネルギーになる。全ての創生物からのエネルギーで世界は変わっていく。(と思う。)
そして、
資本主義社会、見えるものだけを信じてきた結果が、今の社会である。
物欲からくる、ただのショータイムの世界。
でも、本当は、いかに、「目に見えないもの」が大事かを、我々は魂的に、悟っているんだと思う。
例えば、 ”愛” の存在を知っているからだ。
心から好きになる相手って、例えば、お金に換算してからとか、これぐらいしてくれるから、とかで判断し、好きになった人ではない。本当に愛した人ほど、目に見えるものは、度外視なんじゃないかな。
それが、この資本主義の中にいると、 ”愛” を目に見えるものとして、扱うようにもなってしまう。
私はよく、メールをこっちから送ったのに返事が来ないとか、思うような言葉をくれなかったとか、そういう見えるもので判断し、一人不安になったり悲しくなったりしてしまう。
ああ、浅はかだ。
気持ちを推し量ってほしい(目に見えないものを信じてほしい)と、私は相手に望むのに、当の自分は、見えるものだけを信じようとする。
それに、お金も、人の仕事も、あまりに体裁的なもので見たりしてしまう。
「見えないものを信じる力」、本当に、大事にしよう。
自分の心の声に従って、感じるものを、大事にしよう。
世界は、エネルギーで創られている、と感じるから。
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